自己紹介
大岩由文 プロフィール 名古屋生まれ。 1973年多摩美術大学卒業。 1981年から1991年まで東京都立の養護学校教諭として障害児教育に関わる。 子供のころは体が弱く、体を丈夫にしたいという思いを強く持ちながら成長した。大学に入ったのを機に、東京で暮らすようになり、ヨガの教室に通ったり、当時まだ珍しかった太極拳などを習った。 30代に入って心理学に興味を持ち、アドラー、ユング、交流分析、トランスパーソナルなどのワークショップやセラピーに数多く参加した。 「からだ」と「こころ」の関係に、深く関心を持つようになった。 1986年、ドロン・ナボンさん(イスラエル人で日本にフェルデンクライスメソッドを根づかせる礎になった人)のワークショップに参加して、フェルデンクライスのATMグループレッスンを初体験する。 以後10年間、ナボンさんが来日する度に、東京や横浜で開催されるワークショップに、参加し続ける。 1996年、東京で始まった日本で最初のFPTP(フェルデンクライス指導者養成コース)に参加。4年間のトレーニングを経て、2000年5月に卒業し、国際ライセンスを取得した。 2000年10月から2007年3月まで、名古屋の朝日カルチャーセンターでフェルデンクライスの講座を続ける。 2007年、ワークルームを自宅に新設、ここを拠点にFIとATMを続けている。 2014年から2016年まで、金城学院大学に新設された音楽芸術学科の非常勤講師として、ピアノ専攻の学生に、演奏のための合理的なからだの使い方の授業を担当した。 2015年12月から2017年5月まで、日本で最初に行われたシェルハブ・メソッド(旧名チャイルドスペース)のトレーニングに参加して、国際公認指導者のライセンスを取得した。 シェルハブ・メソッドは、フェルデンクライスメソッドの創始者の高弟、ハバ・シェルハブ先生によって作られたメソッドで、対象を赤ちゃんに絞って、発達の動きをより良く学べるように働きかけるレッスンです。 |
「からだ探しとフェルデンクライス 」
ひところ、「自分さがし」という言葉が、よく使われていた。 それを、私なりに言い換えれば、「からだ探し」とでも言うことになるだろうか。 今から25年くらい前、東京に住んで養護学校の教師をしていた私は、本当に納得できる自分の生き方を、探し続けていた。 答えを見つけるために、心理学に入り込んだ。 そこでボディーワークを知り、心とからだの関係に興味を持つようになった。 たまたま、心理学の講座で知り合った人から、フェルデンクライスのワークショップの話を聞き、興味が湧いた。 それが日本にフェルデンクライス・メソッドを根づかせる原点になったイスラエル人、ドロン・ナボンさんとの出会いにつながった。 初めて参加したフェルデンクライスのワークショップで、どんな動きをしたかは、全く覚えていない。 ただ、ナボンさんが 「がんばらずに動いて」 と、何度も繰り返していたのだけは、耳に強く残っている。 当時、日本は高度成長期、どこに行っても追いつけ追い越せのガンバレ時代に、 「がんばらないで」 というメッセージは、とても意外で驚きだった。 最初は冗談かと思ったほどだ。 |
白い粘土で形を作って、陶芸の窯で 無釉焼成したフクロウの「おほ」君。 フェルデンクライス名古屋のマスコットです。 いつもニコニコと微笑んでいます。 |
子供の頃、からだが弱かった私は、20代になるとそれを克服しようとして、「頑張れば強くなれる」 という信念のもとに、武道にトライした。 |
昨年描いた静物画の習作です。 モチーフの魔女ランダの仮面は、三十数年前にバリ島(インドネシア)から持ち帰りました。 |
ナボンさんは、年に2回くらいのペースで来日されて、その都度ワークショップが開かれた。 |
数年前から彫塑の教室に通っています。 なかなか納得のいく形(人体)が作れません。 この作品のモデルさんは、以前ポーズ中に腰が痛くなったのがきっかけで、半年くらいFIに通ってくれた人です。 数年ぶりでまたモデルに来て、ポーズをとった時には、見違えるほど体のゆるんだ、美しい立ち方が出来るようになっていました。 |
4年間のトレーニングを終えた時点で、自分の腰を良くするのは、想像していた以上に大変だということが分かった。 3週連続のトレーニング期間中、1週目の終りにひどい腰痛をおこし、2週目は、滞在中のウィークリーマンションで終日寝込んだまま過ぎて、3週目は、どうにか歩けるようになったものの、会場の隅で見学するしかない、という無残な状況まで体験していた。そんな事態に陥ったのは、70人近い参加者の中で私1人だけだった。 腰痛で、ただ痛みをこらえて寝ているしかない時の悔しさ、みじめさは、いくら書いても書ききれない。 トレーニングは進んで行くのに、自分はどんどん置き去りにされていく。 やはりこんな体での参加は無理なのか、という否定的な思いが、頭の中をぐるぐる駆けまわった。 あの時、ドロン・ナボンさんから言われたことを、今もはっきり覚えている。 「オーイワの腰は、良くするのに10年はかかるよ」 彼も、体をひどく痛めた経験があるので、私の状況が分かっていた。 2000年5月に4年間のトレーニングを終えた時、4年前に較べると体はゆるみ、関節の動きもひろがっていたが、そのことが逆に、リスクを大きくしていた。 痛みに対して体を固めるのは、もともと身体の持っている防御反応なのだと、そのとき気づいた。痛めたところを不用意に動かせば、更にそこに負担がかかり、ダメージをひどくしてしまう。ちょうど骨折したところを、ギブスで固定するのに似ている。 体が固まっていた方が、リスクを抑える効果はあると思う。 ただし、固まり続けていれば、問題解決は永久にできない。 身体が本来持っている動きの能力は、どんどん失われていき、二次的なトラブルも出やすくなる。 いま振り返ってみれば、私が探していた自由な身体を手に入れるためには、4年間のトレーニングを終えたあと、独力で乗り越えなければならない、大きな壁がたちはだかっていた。 その後、もうこれで克服できたかと思っていると、不意に激痛が来るという、油断のならない状態の腰が続いた。激痛で動けなくなる度に不安と絶望の固まりになった。 まわりは、病院に行くことを勧めたが、その気にはならなかった。この腰を直すのは、自分以外にはないという覚悟があった。 一番つらかったのは、こんな体ではプラクティショナーとしての資格はないと、自分を責める言葉が頭の中を飛び交うことだった。 今考えれば、医者も含めて体関係の仕事をしている人が、まったく体にトラブルの無い状態かといえば、そうではないことも多いと思う。 逆に、体が頑丈で痛めたことのない人は、痛めている人の状況に共感できないし、推測することも難しい。 相手と共感できなければ、いいFIは出来ない。 |
庭に咲いた八重のクチナシ とても甘い香り・・・ 二十年くらい前に、ろくろで挽いて作った 一輪挿しに入れて、撮影しました。 |
体の問題をかかえながらも、プラクティショナーとして歩きはじめ、 F I をやっていけたのは、私が美大生のころから陶芸の粘土を触っていて、指先の感覚が発達していたことが助けになったと思う。 もともと子供のころから、指先の器用さには自信があり、小学校の家庭科の刺繍では、クラス一番の仕上がりだった。 もっとも、その時の家庭科で、最高評価「5」をもらったことを、クラスの男生徒たちからは、「女みたいだ」とさんざんバカにされた。 そのことはトラウマになったが、その指先が F I でからだにタッチした時に、相手から多くの情報を感じとってくれた。 ある日、不意の激痛に見舞われて何日か寝込んだ後、痛みがひきかけた腰で、懸命に歩くバランスを探していた時に、明確な答を教えてくれる一番の教師は、自分の体の痛みだということにハッと気づいた。 椎骨にトラブルがあり、不安定で強度の不足している自分の腰にも、ごく狭い範囲ではあるが、ある程度は負荷に耐えられる支え点とも呼べる場所があり、その支え点からはみださないように、体のバランスを取り続けることが出来れば、腰のストレスは軽減される。 そして、そこからはみだしてしまった時には、痛み信号が来る、ということが分かったのだ。 激痛で数日寝込んだあとの、痛みがひき始める時が、支え点を探すのに一番いい学びの場だった。これまで訓練して育ててきた感覚を総動員して、細心の注意を払いながら、支え点からはずれないように、ゆっくり立ち上がると、痛みは全く来ないのだった。 しかし、やったぞと思って喜んだ瞬間にバランスが変わり、腰に鋭い痛みが走って、その場にしゃがみこんでしまう、ということを幾度となく繰り返しながら、自分の腰に負担をかけない立ち方を学習していった。 痛みがすっかりひいてしまうと、その微妙な支え点をさがす手がかり も消えてしまう。そうなれば、支え点からはずれていても痛まないが、気づかずにそこにストレスをためている状態なので、いずれ限界に達したときには、また爆発がおこる。 その後何度も爆発を起こしながら、痛みからの学びを繰り返すうちに、痛みが消えても、支え点の上にいる時と、そこから外れている時の違いが、感覚的にだんだん分かるようになってきた。 痛みから学べるということにまだ気づけず、痛みを嫌なものでしかないと受け止めていた頃に、こんな出来事があった。 トレーニングの最中、脚を持ち上げるATMのあとで腰が痛くなって、そのことをトレーナーのジェリーさんに言ったら、 「それは良いことだよ」 「痛みは悪いものじゃない」 という言葉が返ってきた。その時は、自分の英語が下手だから、会話が変になったと思っていた。 しかし、その意味が、ようやく分かった。 ふり返ってみると、4年間のトレーニングは、私にそれを気づかせるための、下地作りだった。 トレーニングで育てた身体感覚を手がかりにして、私は自分の腰の中の、わずかな安全地帯を見つけ出すことが出来た。 ストレスがかからなくなれば、その場所にはゆとりが生まれ、自然治癒力も働くようになる。 私の腰は徐々に元気を取り戻して、時に痛みが来ても、以前より軽い症状で、回復も早くなっていった。 そして10年以上が過ぎた今、私の腰はほとんど痛むことが無くなり、あの頃の苦労を、笑って語れるようになった。 トレーニングの時に40代だったからだは、いつの間にか60代に入ってしまったが、ありがたいことに以前よりも柔らかくなり、バランスも良くなっている。 そして、手に入れた身体の感覚や、痛みで苦労した体験は、 ATMや F I のレッスンにとても役立っている。 |
昨年の春、京都のトレーニングで ルーシー・アーロンさんと記念撮影。 80歳にしてこの美しさ・・・ |
昨年は、フェルデンクライス・メソッドのビッグな先生のワークショップに参加する機会に、幾度も恵まれた。 春に京都であった、ルーシー・アーロンさんの15日間のトレーニングは素晴らしかったし、秋に東京であった、ミア・シーガルさんの6日間のワークショップも、またとない学びの場になった。 お二人とも80歳になられたが、指導者として世界中を駆けまわっている。 ミアさんの来日は、5年か6年振りだったが、会場で目が合って「オイワ」と呼びかけてくれたときには、驚いた。 自分の名前を覚えていてくれたとは、思ってもみなかった。 動きがとても良くなったと言われて、うれしかった。 裏を返せば、10数年前の70人近い生徒のなかで、動きが非常に悪くて目立っていた、ということかもしれない・・・ 今はどこの会場に行っても、自分より若い人が多くなったが、その中で、以前のように劣等感を感じずに、ATMの動きが出来るようになった自分に、喜びを感じている。 もちろん許容範囲の少ない腰で、しかも老化も加わって来ているので、動きには注意してるが、以前だったら不安で出来なかった動きを、今は楽しんでやっている。 無理な姿勢や無意識の緊張で、腰にストレスをかけている時の自分に、すぐに気づくようになった。 常識的に考えれば、そろそろ体にガタの出そうな年齢になって来たが、それとは逆に、痛みは遠ざかり、バランスも良くなって、身体の感覚や動きには自信が湧いている。 ここまで来るのに、随分時間がかかった。 フェルデンクライスを続けてきたことで、最初に探していたものは、手に入れられたと思ってる。 しかし、まだ満足はしていない。手に入れたと思った後から、気づいていなかった課題が、更に浮かび上がって来る。 ミアさんやルーシーさんを見ていると、「自分はまだまだ」と思う。 それとは別に、このところ自分の人生の終り方を考える年齢にも、なってきている。 高齢社会が来て、人生の最後を寝たきりになって過ごす人も多いが、最後まで自由に動く能力を保ち続けられることが、人生の幸せな終り方ではないだろうか。 「からだ探し」は、これからも続ける。 2011/07 記 |